「わがまま」からはじまる社会づくり

言ってみることが大事
「職場や学校、地域や家庭から政治や社会に対して意見をいう」身近な社会運動を提唱する立命館大学産業社会学部准教授 富永京子さんの講演を紹介します。
◇声を上げられない日本の人々:デモ参加者の比率:8.3%
・奨学金の返済、仕送り率の低下、アルバイト、就職に差し障るかも、迷惑をかけたくない
◇日本における「社会運動ぎらい」
・物言わぬ政治参加(投票、ボランティア、署名、寄付)が多い
・社会運動は古くさい、危険、政治的活動へのネガティブなイメージ
◇政治参加は偏っている?
・どう思われるか怖い(自分を棚にあげる、努力不足、責任転嫁、ネガティブ、自己中心的、自己責任、甘え)⇒何かを批判したくないし、後ろ向きな意見を言いたくない
◇社会運動は偏っている?
・学生、公務員、新聞記者、教員だから偏ってはいけないと考える人は若い人に限らず多い
・しかし、私たちは生まれた時点で偏っている(性別、国籍、出身地域・・・)ことで、平等では全くない(賃金格差、機会の格差・・・)
⇒政治を通じて自分の利害を追求することは偏ってはいる。しかし、それは社会が平等ではないから当たり前=社会運動は個々人の苦しみや痛みを「社会のせい」にするために必要だ
◇今の時代、なぜ社会運動は遠いのか、なぜ職場や地域で声を上げにくいのか?
・ますます進む「個人化」:職場や学校で立場の違う人が増えている(性別、世代、国籍、世帯年収、正規/非正規・・)⇒価値観の押しつけにならないか心配、この主張、私のわがまま?
・ほんとは同じなのに、そうと言えない社会:それぞれ同じような悩みを抱えているはずなのにそれを個人的なものと思い込んでいて、他人と共有できない状況がある(みんなすごくいい部屋に住んでいるように見える、合宿の予算、私は今からバイトしないと出せない・・)
・個人的な意見、と前置きをする人が多い、意見は出すがまとまって進むことができない
◇中間集団の衰退・流動性の上昇
・地元を離れる若年層が増加(2018 年までの30 年間で2 倍に)、人々が地縁・血縁に支えられるものでなくなった
・自治会・町内会の衰退、労働組合組織率の低下、PTA や青年会議所などの忌避という自治や共助という理念が根付きにくい状況に⇒自助に依拠
⇒苦しみや悩み、同質性を共有できる・助け合える場がない
◇集団への不信感とよくわからなさ
・メディアや公的機関への信頼は高く、政治家への信頼は低い
・労働組合というものはよくわからない、宗教団体は信用できない
⇒利害がばらばらになっている今、組織や集団を通じて何かを解決することや、助け合いをすることに対するイメージがわかない
◇ 政治・社会よりも「自己解決」を選ぶ
・「自己責任論」の影響を強く受けており、政府の責任にできない
・政治を通じて自らの苦境や困難を解決することは「責任転嫁」と考えることも
・他人に対し「迷惑」と感じることが多い
⇒自助への志向と迷惑をかけることへの恐怖が、政治、社会運動への不参加を生んでいる?
◇政治がなくなっている社会
・大学や地域の自治会・町内会、路上での抗議活動など、社会運動を目にする機会が減少した今、生活の場から細々とでも政治参加や社会運動の練習をすることが重要
⇒消費者運動は、現代の社会を生きる人にとって、身近な形の社会運動・中間集団に慣れ親しみ、取り組む重要なステップになるのでは
◇困っていると言える社会になるために=小さいことでも声をあげていい
・自分の要求を過小に捉えがちだけど、小さいことから言っていかないとどんどんわがままが言えなくなる⇒小さいことを見逃さないのが生活密着型である消費者運動の強みではないか
◇小さいことは社会運動の練習になる
・ちょっとしたことから始めて少しずつ自分の生活圏を変えられる。成功体験の末には大きな社会運動やハードルの高い政治参加がある
・身近なことから声を上げるトレーニングをし、日々の生活の中で「声を上げる」経験を重ねれば「こわい」「縁遠い」という感覚もなくなる
⇒社会運動を知らない人に「不満を言う」ことの重要性をわかってもらい、「不満を言う」人に対する偏見をなくしてもらう
言ってみることが大事。自己責任の思い込みに絡め取られないように。生活協同組合の活動はまさに消費者運動です。