遅れている日本のインクルーシブ教育を “一歩”進めるために

子どもの育ちを支える居場所(キートスHPより)

インクルーシブ教育は、普通学級を変えていくことが世界標準となっている今、日本はなかなかそうなっていません。東洋大学客員研究員 一木玲子さんの講演を紹介します。

◇大多数の人が、障がい者は差別されてもしかたない、と考えている社会
・大多数の人が、障がいはない方がよい、と考えている社会
・それが差別であると気づいてもいない社会
・しかも「良かれと思って」そう考え(パターナリズム)、その考えを周りの人にも強制する社会
⇒これらについて、差別をした人や社会の責任を問うとともに、構造的な問題として考える必要がある
*パターナリズム・・・強い立場にある人が、弱い立場にある人の利益と判断し、本人の意思を問わずに物事を決定して進めること

◇差別は構造である:差別を個人の心の持ちよう(偏見や悪意)ではなく、社会のしくみ(システム)の中に組み込まれた不均衡としてとらえる視点
▼個人の「悪意」がなくても発生する
・社会のルールや慣習に従っているだけで、特定の人々が不利益を被るしくみになっている
▼「当たり前」の中に潜む格差
・社会の「標準(マジョリティ)」に合わせて作られたしくみが、それ以外の人々を無意識に排除している状態
▼特権と不利益は表裏一体
・構造的差別はだれかが「不利益」を被っていると同時に、別の誰かが無意識に「特権(優位性)」を得ている状態を生み出す
⇒「差別は構造である」と定義することで、社会全体への改善策(システムのアップデート)へと議論を進めることができる

◇なぜ、日本はインクルーシブ教育が進まないのか
・分離教育が差別であるという共通認識ができていない(差別は許さないという共生教育)
・「分離教育で個人の学びを保障する」VS「インクルーシブ教育で社会性を伸ばす」という対立構造から抜け出せていない
・「インクルーシブ教育とは、すべての子どもの学びを保障するために普通教育(学校)を改革すること」という定義が共有されていない
・「将来のことを考えると特別支援学校の方がよい」という言説。分離教育制度が保護者の不安をあおっている。学校教育が将来のための「準備」になっており「一人で生き抜く術を得る場」になっている
・分離教育制度が普通学校に不備があった際の逃げ場になっている。結果として普通学校が改善されない(普通教育の敗北)

◇では、どうすればよいのか
▼「インクルーシブ教育はすべての子どもの権利である」ことの共有
▼分けられることによる弊害を知る(当事者の話を聞く)
▼支援学級、支援学校は「避難所」であると考える
▼一緒に学ぶ中で培われる「学び」とは何かを追求する
・「学力」の再構築:能力主義、競争主義からの脱却「一緒にいるからこそできる学び」とは
・「自立」の再構築:自立とは依存先が多いことである(熊谷晋一郎)
・できないことは人に頼る、頼られたときは応えられる人になる(大泉洋)
▼社会は「一人で生き抜く場」ではなく、「人とつながりながら生きる場」である:人とつながることで本人と保護者の安心感を紡ぐ

◇学校で一緒にいることにより、知り合いが増える
→助け合える→避難所でも障がい者がいるのがあたりまえになる→迷惑が迷惑でなくなる→本人も保護者も安心できる地域になる

◇イタリアの考え方
・インクルーシブ教育は我々の考え方を変える。社会をインクルージョンの文化に変える効果がある
・イタリアでは法制度としては整っているので、話し合いを重ねて実現していくことが重要
・違いは誇りである
・インクルージョンとは、人は自分の人生の主人公であること、他の人が決めた人生を過ごすのではなく、その人がやりたいことをその人らしく行うことを保障する
・障がい児者の排除はこの社会や学校が生み出したのだから、彼らが学校に戻ってくるのを手助けするのが大人の責任である(ある小学校長の言葉)

「差別をしないためには学び続けるしかない」という言葉も心に残りました。「支援学校を選ばなくてすむ普通学級をつくる」ことを進めていけたらと考えます。